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フランス料理勉強会

第一回 浅野和夫氏「マキシム・ド・パリ」

2007年7月10日 於 メゾン・オノ

実行委員:中田淑一(辻調理師専門学校)
久保康志(大阪新阪急ホテル)
能勢洋(帝国ホテル)
佐々田京(ホテルグランヴィア大阪)
歌田年一
ライン

今回、第1回目の勉強会では、1966年にオープンし、日本におけるフランス料理の地位を築いた「マキシム・ド・パリ」の初代総料理長であった浅野和夫氏(現顧問)に当時の話を聞いた。
1960年頃から現在の場所、数寄屋橋交差点にソニービルの建設計画が始まり、(株)ソニーの創始者のひとりである盛田副社長(当時)の「日本にも大人の社交場となりうるフランス料理店を作ろうではないか」という提案によって、その当時パリで最盛期を迎えていた「マキシム・ド・パリ」が日本にも誕生することになった。
オープンにこぎつけるまで様々な紆余曲折があったが、料理や内装をはじめ全てパリの本店と同じにするということを条件に東京での出店が実現。 当初駐車場にする予定だったソニービルの地下3、4階に1966年「マキシム・ド・パリ」が誕生した。 また、10月31日にはレセプションが開催され、11月9日に日本初のフランス料理店としてグランドオープンを迎えた。
オープン当時のメニューは全てフランスから出されたもので、キッチンにはピエール・トロワグロ氏をはじめ本店から5人、サービス5人、演奏者5人、合計15人のフランス人をフランスから呼び寄せたことでも話題になった。

第一回 浅野和夫氏「マキシム・ド・パリ」

マキシム・ド・パリ顧問 浅野和夫氏
日本エスコフィエ協会 副会長

オープン当時はどのような食材を使用していたのか

当時は、現在のような食材入手が容易な時代ではなかった。 フォアグラ、トリュフ、アンディーブ、エシャロットなど日本で手に入らない物も多く、缶詰や瓶詰あるいは代用食材を使った。 フランス鴨の代わりに北京ダック、ブレス産プーラルドの代わりに日本産プーラルドを使用した時期がしばらく続いた。
今では何もかもが便利な世の中になったが、その当時の苦労の上に今の豊かさがあることを改めて感じた。

当時のパリ・マキシムのメニュー

当時のパリ・マキシムのメニュー

実行委員のメンバー

実行委員のメンバー

開店記念として客に贈った本

開店記念として客に贈った本

日本人の味覚に合わせた料理だったのか

味付けについて日本人に合わせるということはせず、あえてパリのマキシムと同じ味付けで東京でも料理を提供した、という点がとても興味深い。 入手困難な材料があったにもかかわらずパリの味にこだわったのだから、大変な苦労と努力があったに違いない。しかしオープン当初は客からの味に対するコンプレインがあったようだ。 「塩辛い」と表現する人が多かったが、単純に塩が多いというよりも、当時の日本の食生活の中では濃厚な味を「塩辛い」と表現する以外に表現方法がなかったのかもしれない。 料理のボリュームもフランスと同様だった。
ガルニテュールは、メインデッシュが魚料理ならPommes a la vapeurを、肉料理にはPommes Maxim’s やPommes souffleesなどを提供した。 ア・ラ・カルトメニューの《Les Legumes》に書かれている野菜料理は単品でオーダーされていた。 最初はグランドメニューのみで営業していたが、翌年の1967年春頃からお昼のセットメニューを作った。また、それとは別に毎週2回ご婦人を対象に「フランス地方料理の会」と題して、それぞれの地方料理のメニューをお昼に提供していた。

価格設定について

メニューに、シャトーブリアン2人前で5300円とあるが、その頃都内でラーメン一杯80円、かけそば一杯60円だった。 「マキシム・ド・パリ」で食事をしたら一人1万円と言われていた。当時の国家公務員の初任給が23000円という時代だ。

サービススタイルについて

サービスはゲリドンサービスで、料理は銀のプレートやキャセロールなどに盛られてテーブルに運ばれ、客の前でメートル・ドテルが料理を取り分け、フランベやソースをかける等の仕上げをして提供した。驚きと活気のある光景であった。 現在のような皿盛りのスタイルで提供するようになったのは今から15年位前から。当初のメニューはすべてア・ラ・カルトで、コースメニューというものはもう少し後になってから存在する。客がそれぞれの好みでオーダーし、パリ・マキシムと同様のサービスが行われた。 これはまさしく日本で初めての試みであった。サービスは、フランス人5名と日本人30名で行っていた。70年をかけて生まれた芸術と呼ばれるパリ・マキシムのサービスを日本で再現するのは容易なことではなかったが、実地指導に来ていた総支配人のガッシェ氏は「サービスの教育は時間をかけてゆっくりやっていく」と当時述べている。 今では定着しつつある食べる側のマナーも確立されておらず、席を立って隣のテーブルに行き乾杯をするなどという風景も見受けられた。それから年月を経て今のレベルに至ったということを忘れてはならない。

料理の再現

1960年代のパリの「マキシム」といえば、《Soles Albert》をはじめ、《Poularde aux concombres》《Tarte tatin》などのスペシャリテがある。パリ・マキシムの伝説となったメートル・ドテル、アルベールの名がついた《Soles Albert》は当時から知名度も高く、よく出されていた料理だ。 ソールを下処理する時には、サービスがスムーズに出来るように細かなテクニックも駆使された。また、ソースは分離しやすいので細心の注意を払って仕上げられていた。 次回の勉強会(8月14日)では、オープン当時の「マキシム・ド・パリ」の料理を再現し、味見をすることが目的だ。 「温故知新/古きをたずね新しきを知る」をモットーに、自分達の舌に味を記憶させ、ルセットではわからないテクニックを学ぶ。
再現する料理は、当時のメニューに出ている《Soles Albert》《Poularde aux concombres》《Pommes Maxim’s》の3品に決定した。

>>料理の再現はこちら

第一回勉強会(一日目)を終えて

浅野氏の座右の銘は「健康・忍耐・努力」とうかがった。 そして、私たち後輩に対して、この3つを忘れないでほしいというメッセージをいただいた。料理人として、心にしっかり受け止めておこうと思う。
勉強会を通して何を学ぶのか、ということについて実行委員の間で何度も話し合ってきた。今、私たちが当たり前のように作っている料理の背景をまず知ること、そして先輩方が様々な困難を抱えながら学んでこられたものが伝承されたからこそ今があるのだということを、しっかり心に刻むことだと思う。 その上で、自分たちなりに考えて今の時代に生かすべきだと思っている。 料理の再現は、ルセットの文字だけでは分からない何かを見つけたいという想いで取り組もうと思う。

以上

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